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Bachacha

音楽、伝統文化、経済社会などに関心あり

「子供の私物化」と「世間に出しても恥ずかしくない子供に」についてデルタ航空騒動からの雑感

dd.hokkaido-np.co.jp

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

デルタ航空での騒動を詳しく正確に知る由もないが、この騒動から、子供よりも大人客を優先して着席させるべきなのか、子供へのあるべき躾の問題としてはどうなのだろうか、という問題。

デルタ航空の契約や取り扱い規定など四角四面の問題は別にして、上記のヤフー知恵袋に在る様に、私が子供の頃には、車内が空いていたのなら座っても構わないのだろうが、込んでいる時は子供を親の膝の上に置くか、または脇に立たせるのが世間の常識で、その時、子供を座らせたままの親がいたのなら、周囲からジロジロと白い眼で侮蔑されるか、ご意見番のジジババ殿から注意されるのが当たり前であった。

銭湯で騒がしい子供はその辺のオヤジに叱られ(笑)、そうして教えられた。

子供には「世間様に出しても恥ずかしくない子供に」と、親を含めて社会が見守り、躾け、育てるものであった。

それがそうでなくなったのは、US得意の間接的殖民化地政策を担う戦後教育の中、更に高度成長期に加速化したのが、親が子供を完全に「私物化」し、自由を自己中に置き換えて考え行動する国民がTVでの消費社会で爆発的に増殖した中での出来事だ。

戦前の強圧的な国家主義教育から、戦後は空疎な形式的自由と民主主義教育へと政策が転換されたが、その主導権を実務上握っていたのは戦前の国家主義教育をたっぷりと授けられて来たはずの文部省、政府官僚だ。

当然、当の政府官僚さえ自由の意味と意義を深慮しているはずがない。

ましてや日本国民は、日本の行政権が直接的に支配下に置かれる形式で殖民地になったわけでもなく、US式の自由と民主主義教育を授かってはいないのであるから、実の所は自由の意味さえ深く思慮する教育もなく、ただただ受け身で教科書の文字面を追って試験用に記憶したに過ぎない。

そうした国民は、躾け自体が強圧的で戦前の国家主義的色彩が濃厚だから、子供には好くはないとさえ思い込んだのだ。

元より戦前の国家主義教育では、内実は戦後の教育でも国家主義が継続性を保ってきたのだが、自律的に学び思考し、考えを実践する過程の大切さは自由主義そのものであったから、当然にそれを教えはしていない。

躾けは家庭内の自律的教育法であるはずだが、戦前は国家主義的教育から影響を強く受けていたから、戦後の社会では一斉に、全面的に拒否的反応を強いられた。

子供に躾を施す時期の親にとっては、日本人の闘争的精神性を完全に骨抜きするのみを目的とし、自由主義への模索と実践を提言するのを放棄して来た占領政策によって、選別と熟慮の隙も無く全ての価値観を完全に否定され、まるで、US占領軍がドカドカと軍靴のまま居間に踏み込んできて、その兵士にちゃぶ台を足でひっくり返された様な戦後教育だったのだ(笑)。